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2月, 2025の投稿を表示しています

野村政良(制作について)

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野村政良の制作は以前書いたように写真を元にして、かなり細かく描写していく。それは年を経るにつれ進んでいった。壮年期は画風が違っていた。もっとダイナミックに描いていたように感じる。それは、絵について迷いがあったのかもしれないし、意欲的に新しい画風を試みていたのかと思う。 ここにスケッチから制作された絵を紹介する。「秋林」である。整然と植林された杉の林に入っていって、その美しさに心を取られた瞬間を写生している。作品は図案化された杉枝の線など意欲的な姿勢が感じられる。                       秋林 個人蔵

私は、佐藤忠良が好き

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「首狩り」なんて恐ろしい想像をするが、彫刻家の場合は野蛮な行為ではない。全身像や半身像を造るように頭像を造ることを言う。あまり一般的な言い方では無いけどね。佐藤忠良は、頭像を多く制作した。良い作品が沢山ある。 私は、教師になって最初に勤務したのが中学の美術教師だった。隣の中学校の先輩美術教師(Aさんと呼ぼう)と話す機会があった。たまたま「アトリエ」というアマチュア向けの美術技法専門の雑誌で彫刻技法の刊を持っていたとき、Aさんがそれを見て「その中の頭像のモデルは私なんだよ。」驚いたねぇ。 Aさんは、彫刻が専門ですでに県展の彫刻部審査員だった。若い時Aさんは彫刻を学びたいと佐藤忠良に直談判し弟子にしてもらい、夏休みなどを利用して指導を受けた。その間にモデルになったのだという。 驚くとともに感心させられた。  

私は、香月泰男が好き

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 第二次大戦後シベリア抑留された経験を持つ画家で「シベリアシリーズ」が有名だ。抽象画ではないが精神的なモノを抽象的な表現を使って表している。色使いも独特で派手な色調は全く無い。土や石を思わせる色合いだ。油絵具以外にもいろいろと画材として使ってみたようだ。 中央ではなく地方で制作した姿勢が良い。地元の小川に架かる橋を引き合いに出して「私はこの橋を中心にして、500m以内で描きたい画題を十分見つけることができる」と言ったとか。写生するのに適した好景色を探すのではなく、自分のテーマに添った場所や物は見つけようとする姿勢があればどこにでも在ると言いたいのだろう。この姿勢は坂本繁二郎とも同じだ。  

私は、中西利雄が好き

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水彩画は軽妙な感じがする。でも、中西利雄はこの軽妙な感じの水絵を重厚な油絵のように描きたかった。作品は風景も人物も素晴らしいと思う。重厚さが感じられるのは人物画のほうだ。風景画は水絵本来の軽妙さが生かされている作品も多い。 中西利雄著「水彩画の技法」の中に〈自然の持つ美しさと厳しさ〉について述べたところがある。一部を少し長くなるが転載してみる。  「〈略〉十和田湖へ新緑の写生に出かけた時であった。六月の奥入瀬の渓谷に入って私はじき自分の敗北を意識した。〈略〉やはり自然の美しさに圧倒されて手も足も出ない感じであった。〈略〉偶然その時同宿した京都の或る日本画家は私とは、別な方法で勉強しているのを知った。彼は毎日古風な望遠鏡を首に掛け、小さな写生帖と古新聞をたくさん抱えて渓谷に入っていく。望遠鏡は対岸の樹林や大きな樹木の枝にとまって囀る鳥類の生態を観察するために、古新聞は制作に必要な植物を採取して来るために、そして夜食後はランプの下で採取した植物の葉を整理分類して克明に写生するのである。この花鳥画家の毎日規則正しく自然の中に入っていって静かに観察し克明に写生し勉強している態度が私には羨ましかった。 〈略〉我々は自然の中に入るととかく自然の美しさに引き摺られがちであり、自然の美しさが圧倒的なだけに肝心の絵のことは忘れていつの間にか自然のあとを追いかけ回したり、自然の外側だけを撫で回すことは極めて多い。 自然の示す変転極まりない複雑な効果の中から、その感動を生き生きとつかみとりつつ形、明暗、色彩をもって厳しく再構成していくこと、自然の中に躍動する生命を生き生きと表現することが大切である。自然の示す美しさというものが普通考えられる美しさ(甘美)でなしにその美しさの中には非常に厳しいものを含んでいることも同時に知らなければならない。」 実に清々しい内容だ。この本を手に取るとき必ず読んでみる箇所である。

野村政良(制作について)

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野村政良の制作方法は実に細かい。風景画は写真を元に描いていた。写真に1cm又は5mm間隔で座標を書き入れる。画像拡大する大昔から世界共通の手法だ。作品の大きさの下図用紙にそれ相当の間隔で座標を書き対象部分に添って鉛筆で描いていく。 下図を描き上げると次は作品用のパネルに絵を転写する。方法は新聞紙を広げて木炭を全面に擦りつけ黒くした面をパネルに当て置く。その上に下図を重ねて鉛筆か竹ペンで、絵の線をなぞり写し取っていく。 黒塗の新聞紙は複写カーボン紙の役目を果たしていたのだ。 パネルに写し取った木炭の線を固定するため筆を使って水墨で再度描く。 そして彩色に移る。紹介した下図には座標線が書かれているのが少し見える。    

野村政良「古岩屋」

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 「古岩屋」は1975年に制作されている。「愛媛の101人展」に出品。 「古岩屋荘の屋上から、冬空を背景にした岩壁に直面した時、腹の底までこたえるような強い感動を覚えた。累々と聳え立つ礫岩層の岩肌がぐいぐい迫ってきて、あたかも並び立つ巨人群に睥睨されている思いがしたが、同時に鬱勃と画心が猛り始めた。この巨人群と対決してみようと。」(政良) 「絵は描く人がまわりを見回して描き始めるものだ。どれくらい見つめているのかが問題だがよく見ているな、と思ったのは具象では野村政良さんの「古岩屋」。透明、静かな目で見ていて、すがすがしい。行きずりの観光客の目でない、真っ直ぐに見る目が根底にないと描けない作品だ。」愛媛の101人展を見て、美術評論家の佐々木静一氏が新聞紙上に書かれた感想の一部。                      セキ株式会社所蔵

野村政良(その人)

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 野村政良は1913(大正2)年11月15日に生まれ、1998(平成10)年11月15日に死去、85年の生涯だった。商業学校を卒業して日本統治下の朝鮮に渡り職を得ると共に、日本画に興味を持ち、当時朝鮮美術展名誉審査員の加藤松林人に師事する。 第二次大戦に応召され中国の戦場で大腿部に銃弾を受けるも、命に別状なくそのまま弾丸は体内に放置?される。大腿部の銃創は大きな血管を損傷すること無く、ズボンに小さな赤く丸い染みを付けただけだったらしい。周囲の筋肉が巻き固めた形で膿むこともなく生涯終えるまで体中に留まっていた。亡くなって火葬を終え骨を拾う時に鉄の塊が出てきた。この事はかなり幸運が重なっている出来事だと思う。弾丸が数cmずれて当たっていたら戦死の憂き目に遭っていたかもしれない。そうすれば私の存在も無い。 終戦を迎え家族と共に無事朝鮮から引き上げてくる。その後愛媛県久万町(現久万高原町)の中学校に職を得る。 日本画を生涯の友として画業に励むと同時に、芸術文化を地域に広める実践もしてきた人である。町のシンボル的草花のササユリを会名とした「ささゆり会」という画塾を開いて後進の指導に当たってきた。愛媛県美術会の日本画部審査員や評議員、旧愛媛日本画会の会長といった公的な面でも中心的に働いてきた。